(1)「日書」は巫風豊かな戦国楚国の地に発生し、秦がこの楚を征服すると、秦は楚文化の一つとしての「日書」の占卜文化を受け継いだ。その結果、秦楚の占卜文化の交流による「日書」の第二段を迎え、さらに秦漢統一帝国の成立によって「日書」の占卜文化が全国的に拡大していったことを、「日書」の出土分布状況やそれぞれの占辞の比較から検証することができた。しかし前漢後期あたりから「日書」の統一性が崩れ、占法単位に日者が分岐して行く状況も推測することができた。 (2)秦の六国統一にともない、多くの先秦の地域文化は秦の一連の統一政策の下で消えていった。しかし秦の統一以前における諸国固有の地域文化、とくに文字資料から検証される地域文化の一端は、この30年来ようやく具体的に知られるようになっている。それが種々の秦簡であり、あるいは楚簡である。とくに秦に征服される以前の楚の「日書」である九店楚簡と秦の各種「日書」を比較し、さらに特徴ある楚文化の一つの「卜筮祭祷簡」と比較することにより、「日書」発生のプロセスの一端を検証することができた。総じて、前漢帝国における楚文化の影響はつとに指摘されたことであるが、秦によって滅ぼされた先秦文化の中でも、とくに生き延びた楚文化の一端を、「日書」から検証することができた。 (3)秦楚の文化交流の中で第二段階を迎えた「日書」文化が、その後の「日書」の基本的な枠組みを生み出したこと、またそれが漢代においてどのように継承されているかを、前漢初期(景帝期)の孔家坡漢簡「日書」との比較において検証することができた。 「日書」の占卜文化の広がりは、ややもすれば特殊に見られがちだった楚文化のもつ一種の普遍性を証明することになり、それが全中国に拡大するのは、秦漢帝国という支配体制を媒介することで可能だったことを検証することができた。
|