日本海沿岸の資料調査により、鳥取県西部・中部において古代には内陸まで海が入り込んでいた古地形が復元でき、国郡衙の立地や山陰道駅路のルートが港湾の存在と深く関連する可能性が考えられた。この点は北陸の加茂遺跡周辺でも河北潟から延びる水路との関係が指摘されている。これは律令政府がめざした国・評による地方支配の改革に伴う駅・伝馬の交通制度と官道の整備が港湾を強く意識して行われたことを示している。 このような律令期の制度的な交通体系の特徴は、弥生時代の博多湾岸の比恵・那珂遺跡群の道路遺構と須玖岡本遺跡の関係から、古墳時代の大阪湾岸にみられた難波津・住吉津と推定される古道、河内湖・小椋池・琵琶湖と河川交通に連結する猪甘津や水垂遺跡・夕日ヶ丘北遺跡など、近畿の初現期の計画道路の海上交通・水上交通を起点・結節点とする陸路の特質に由来するものと考えられる。以上の資料により、道路の成立から発展は、形成期(原道路)・成立期(道路)・発展期(駅路)の三段階に区分される。 これらの道路は王権の政治的な統治理念と人や物資の交通を重視した世俗的な機能を併せ持っており、古代都市が有する二つの側面を象徴している。難波地域では大王権が国威を誇示する一方、成長した地域社会による活発な交通・交易が集中し、多様な文化や思想が衝突し交じり合う特殊な空間が成立していた。港湾と道路の築造技術をもち、交通に必要な船舶と車駕を取扱い、人や物資の交流を調整できる能力(知識や世界観)は、当時の難波に居住していた百済を中心とする渡来系氏族に負うところが大きかったと推定される。 廃都以後の難波京における都市機能は、これら交通・交易の発達した区域を核にして発展を遂げていった可能性を指摘でき、それを担った人々や社会情勢を検討していくことが今後の課題となった。
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