平成22年度は、過去2年間の調査研究を基に、インドネシア、フィリピン、日本における原子力発電政策の導入期における推進派と反対派の論理と行動についての調査を継続した。 日本での原発推進は1950年代から始まった。日本政府の論理は原子力の平和利用という目的の明示化にあった。この政府の論理は、原子炉の重大事故や放射線リスクなどという平和/軍事という二元論的認識を無意味化させる議論を封じ込めた。日本での反原発運動は、電力需要を賄うための原発とそれの安全性へと議論は収斂した。インドネシア(2005年)とフィリピン(2009年)では原発の平和利用が前提であった。時はアジアにおける原発ルネサンスといわれ、エネルギー確保と省エネ、気候変動対策の切り札としての原発が脚光を浴びていた。主たる論争点は原発の安全性と政府内の政策過程の透明性であった。両国ともに、安全性については推進派と反対派ともに科学者を要して激しい論争を展開したが、政策過程の不透明性、「援助」国と関連多国籍企業の資本の論理、そこからくる政府・政策不信が原発建設計画の中断の決め手となった。 2011年3月11日以降継続している日本での東日本大震災により発生した原発重大事故は、アジアにおける原発政策推進に影響をおよぼしている。2011年初頭時点で原発建設を表明していたインドネシア、タイ、マレーシア、ヴェトナムという東南アジア諸国のうち、ヴェトナム以外は建設の再検討という政策転換を迫られた。反原発市民運動は安全性をめぐる自己論理の正当性を一層声高に唱えている。しかし、推進派が国際協力体制を構築しているのに対し、反対派は内向きの政治的論理が主であり、反原発市民社会の越境的な広がりには限界がある。
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