研究概要 |
本研究は、日露戦争後から第1次世界大戦の時期までの日露関係の変容を対象とし、それを外交や世論などの動向から分析しようとするものである。 寺本は、イギリス国立公文書館において、この時期後半期の日露、日英、英露、日米関係などの多角的な外交関係を調査した。それによれば、日本は日英同盟の存在意義を再評価しつつ、同時に日英、日米関係が冷却化していることを認識し、そうであればそうであるほど日露関係を深めようとする動きを強め、また日米戦争の際はイギリスの支援は不可能であることも強く意識し、このことも日本がロシアと提携関係を深める原因になったこと、それをイギリスやロシアが鋭敏に観察していたことが資料により明らかにできた。 イギリスもロシアも、日本の当時の主要な新聞の外交関係に関する論調を綿密に調査していたことも判明し、このころすでに政府といえども世論の動向を無視できない情熱にあったことが窺えた。 ミハイロバは、この時期の日露間における世論の動きについて、両国の新聞を丹念に調べた。 それによれは、この時期、日露関係を動かした要因の一つに新聞に代表されるメディアがあった。 『ノーヴォエ・ヴレーミャ』は戦争前と同じように極東におけるロシアの利権確立を重視した。また、それとは違い、『レーチ』は,戦争後の新しい勢力バランスを認めた。その議論は,政府に交渉の過程を説明することを余儀無くさせたことを明らかにした。 1906-1907年にロシアは日本だけではなく、イギリスとフランスとも交渉を行い、協定を締結したが、日本との交渉のみが世論の対象になった。1908年2月28日、ロシア歴史上初めて外交政策問題はロシアの国会であるドゥーマの審議事項になり、ロシア史上はじめて世論に配慮して外交政策が遂行されたことを資料により実証した。 トルストグソフは、この時期の日露関係と連動する日米関係の動きを示す高平・ルート協定についてロシア側がいかに見ていたかを調査した。当時険悪化していた日米関係の調整が行われたことを観察しつつ、それがロシアをして日露関係の緊密化に向かわせた一因にもなったことを分析した。 以上のように、この時期、日露関係が対立から協調へと向かうに至ったかを経緯について、有意義な調査を進めることができ、外交関係の重要性を確認しつつ、新聞等のメディアの動きも重要な役割を果たしていたことを実証できたことは大きな成果と重要性を持った。
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