前年度までに解読された原稿のすべてを考慮したかったが、時間の制約から不可能であった。以下は、現時点で参照することのできた資料の範囲での暫定的結論である。ヒックスはHicks (1939a)、Hicks (1939b)、Hicks (1940)などにより、Kaldor (1939)とともに、補償原理に基礎をおく、いわゆる新厚生経済学を確立した。それはRobbins (1932)により反駁されたピグー型の厚生経済学を乗り越えたものであったはずだが、ほどなく、多くの論者によって批判され放逐された(Scitovsky(1941)など)。このような新厚生経済学の閉塞状況を打開することこそ、1950年代初頭のヒックスに課された課題であった。「ヒックス文庫」に含まれる未公刊草稿「厚生経済学:講義I-IV」によれば、まさにそのような閉塞感こそが、ヒックスをして、厚生経済学の改訂という仕事に向かわせた原因だったことが窺える。ヒックスは自身が作り上げた「カタラクティクス」(=一般均衡論あるいはミクロ経済学)あるいはそれに基づく新厚生経済学を、かつてかれが辿ったのと同じ方向で書き直す可能性はほとんどないと考えていた。したがってそれに続くヒックスの厚生経済学は、新厚生経済学ではない、あるいは同じ意味で「カタラクティクス」でもない代替理論であるべきだった。そしてそのような代替理論こそ、かれが未公刊草稿「もう一つの厚生経済学に関する試み」において初めて(1954年ころ)示したところの指数理論に基づく「富の理論」だったのである。しかし、そのようにして構築されつつあった新しい厚生経済学も、やはりヒックスにとっては満足のいくものでなかった。ヒックスが同草稿などでも言及しているとおり、指数理論は厚生経済学の課題である社会状況の比較という作業に際し、何を基準物に取るかによって結論が変化してしまうという「相対性に毒されて」おり、原理論まで高めることが難しかった。そのため、「富の理論」に基礎をおく新しい厚生経済学は、完全な形では出版されず、多くが草稿のまま残ったのである。
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