本年度は、前三月革命期の西南ドイツで進行した農村手工業・小営業者の窮乏化問題の実態とビュルテンベルク政府の政策対応を明らかにすべく、シュバルツバルト時計産業を取り上げ、検討した。その結果、次のことが明らかとなった。 工商業本部はシュバルツバルト時計産業の危機に際しアメリカ式互換性部品工場の建設を強力に推進した。それは大量生産体制が工場内の労働力編成を劇的に変容させたことを知る今日的視点に立てば、時計工を救済するどころか、その没落を招きかねない政策といえる。しかし大量生産体制が支配的な生産原理となる遙か以前のヨーロッパ経済を舞台に産業振興策を展開する工商業本部にとって、互換性部品技術は中小産業経営の保全と矛盾するものではなく、時計部品産業の近代化を通じて時計工の存続を可能ならしめる技術であった。 だが、アメリカ式互換性部品工場の建設を中心的内容とする工商業本部の時計産業振興策は、ヨーロッパ市場の需要動向を踏まえた市場適合的な政策とはいえず、あまりに技術に偏重した構想であった。また工商業本部は、互換性部品の技術的可能性を高く評価するあまり、経営的独立性を堅持せんとする時計工の心性や労働慣行を過小評価し、彼らが独自の部品規格や独立自営の基盤である仕上技術に固執することを予期し得なかった。互換性時計部品工場の試みは、製品市場と時計工の心性・労働慣行の両面において現実からあまりに乖離していたため失敗に帰したのである。 やがて時計産業のなかからフランス時計産業を範に多種多様な高品質高価格時計を生産する工場制工業が出現するが、これこそアメリカ時計産業のヨーロッパ市場進出に対する、19世紀中葉という時点でのシュバルツバルト時計産業の現実的危機対応であった。
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