「見る」行為は社会的にどのように構成されるのかの「視覚の社会的構成」と、「見る」行為が人や社会をどのように構成するのかの「社会の視覚的構成」という、相互に補完し合う二つの分析視点に立ち研究計画を進めている。「リアルな世界」を見る視覚行為の参与観察と「ヴァーチャルな世界」の調査を行い、見ることが社会的にどのように作り出されてゆくのかともに、見ることにより自己および社会がどのように作られてゆくのかの問題も取り上げる。 今年度は、視覚のあり方と「自己の構成」との関係を「器官なき身体」の概念と関連づけ「身振り」を見ることの意義について考察を行った。この考察はリアルな世界を見る眼差し、とりわけ、ものを見ることに特化した観光の調査をもかねておこなった。 われわれの視覚に対して、身振りが顕著な意味をなすのは「演劇」の世界においてであるといえ、演劇での身振りを考察することで日常生活での身振りを捉えることにした。この演劇における身振りの視覚的な内容を把握するために、リアルな世界に対する典型的な視覚のあり方を示す観光の分析をも兼ねて、インドネシア、バリ島の舞踊「レゴン・クラトン」およびパリ、ムーラン・ルージュでの「フレンチ・カンカン」の調査を実行した。これらの考察を通じて、まず、視覚とは「いまここ」を越え、現在という時空を超越する機能、あるいは、いまここを「代補」する役割を果たしていることを指摘した。次いで、アントナン・アルトー、ゲオルグ・ジンメル、ワルター・ベンヤミン、ロラン・バルトらの演劇論を検討し、演劇における科白と身体とを比較しながら、言葉の修辞から「身体の修辞」への移行を論じ、身体の修辞としての身振りを「反復」することの意義を明確にした。劇であれ日常であれ、身振りの反復や引用、あるいはそのアクセントやプロミネンスが身体並びに主体のその時その場の意味づけを行い、これに対する生き生きとした実際の視覚それ自体を作り出すことになる。 しかも、この反復とは同じ事柄の繰り返し、同一性の生成に留まることではなく、多様な「変様」を意味している。同一でありながらも異体を形成するこの実体は「器官なき身体」として規定することができ、視覚に訴える身振りとは、この器官なき身体の端的な事例であるといえ、この概念のもとで身振りを見ることを捉え、リアルなものとして眺められる観光文化の意義、変様と情念/主体との関連についての検討をおこなった。
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