戦後、大学における通信教育が一つの「教育方法」としてではなく、「通信制」の大学という形で制度化されるに至った経緯とその背景、そしてそれがもたらした結果を明らかにするため、主に以下の3点について調査・研究を行った。 1.講義録に象徴される日本的通信教育の系譜に属しない通信教育の事例として、昭和初期の基督教伝道講座の一つ、近江兄弟社の「基督教通信学会」について、同社の機関誌「湖畔の声」「The Omi Mustard Seed」の検索ならびに関係者へのヒアリング等を通じて調査・研究を行った。その結果、アメリカ流の通信教育の手法が戦前期の日本においても実施されており、戦前期の通信教育と戦後の通信教育との間に連続性が存在することを明らかにした。 2.学園紛争下の昭和40年代、慶應義塾大学の通信教育部長として「開放制」教育としての通信教育の意義を主張した教育学者・村井実の思想と行動について、村井の著作ならびに慶應義塾大学通信教育部の機関誌「慶応通信」「三色旗」等の調査を行った。その結果、「開放制」の教育体制の旗手として誕生した戦後の通信教育が、明治期以来の日本の教育全体を覆う「閉鎖制」教育体制の考え方によって、その発展がいかに阻まれてきたか、またその弊害が学園紛争下にどのような形で噴出したかを明らかにした。 3.1951年の第1回から60年間にわたって継続して実施・刊行されている日本通信教育学会研究協議会の『集録』のバックナンバーを調査し、通信教育研究の60年の動向を分析・検証した。その結果、戦後の通信教育制度成立期における高校、大学、社会通信教育の勢力図の一端が明らかになった。
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