江戸時代を通じて幕末まで行われた日光東照宮をはじめとする徳川家霊廟の造営・修営は、幕府自らが実施したものもあるが、多くは大名からの労働力や資金の提供を受けて行われた御手伝普請であった。徳川家の霊廟建築は、今では失われてしまったものが多いが、筆者が明らかにしてきたように江戸時代における最高の技術をもって造営されたことに間違いはない。御手伝普請は、大名の国許と江戸の間での多くの人間の移動をもたらしたが、それとともに様々な建築技術・技法、意匠に関する建築情報の移動も伴ったであろうことは想像に難くない。徳川家霊廟の様式が地方に伝播する可能性は強く、ときには地方から中央に持ち込まれるといった逆の現象もまったくありえなかったとは言い切れないであろう。 本研究では、(1)徳川家霊廟(将軍霊廟だけではなく、夫人や将軍生母の霊廟までを含む)造営における御手伝普請の内容を御手伝に関わった大名家に残された古記録から検討するとともに、(2)造営への関与を通じて得て、国許に持ち込んだ建築に関わる情報を探り、かつ(3)徳川家霊廟と大名国許の寺社建築の技術・技法・装飾の形式との比較を通じて、造営がどのような影響を与えたのか、あるいは与えなかったのかを明らかにし、建築における中央・地方間での様式の伝播、様式の成立の可能性を検討している。
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