最終年度の本年は、これまでの調査や文献収集を引き続き行うとともに、本研究のとりまとめを行った。戦前期から戦後にかけておもに九州で活躍した松田喜一の活動について、彼の生地である熊本県を調査した。遺族から聞き取りを行い、彼の研修を受けた経験のある唐津の農民・小説家である山下惣一、彼の活動を高く評価している農と自然の研究所の宇根豊から聞き取り調査をした。本研究のとりまとめとして、「東アジア農業を比較史的にどう見るのか(1)(2)-日本農学原論のための予備的考察-」(『大阪経大論集』第61巻1、2号)を書いた。 そこでは、次のような新たな見方を提示した。農業技術にはその地域の土地自然条件を受容しながら折り合いを付けて適応しようとする「風土技術」的側面と、作物そのものに目を向けて能動的に肥培管理していこうとする「養育技術」的側面の二つがある。風土技術は、受容的で容器装置的であり、地域文化と長い歴史によって形成された「体験知」がものをいう。この風土技術には、マクロ的なもの(たとえばモンスーン地帯)と、微気象・微地形などのミクロ的なものがある。マクロ的風土には農家はほとんど受容、適応し、ミクロ的風土に対しては、ある程度の改変が可能であり、村・地域ぐるみで取り組むことが多い。農家が個別に改良しやすいのは、能動的・手段体系的・個別管理技術の養育技術であり、「科学知」の応用が利きやすい。たとえば、肥料や農薬、農具、機械などである。 両者、および各要素は「生態均衡系システム」として連動しており、生物生産であるが故に、それぞれが勝手に展開することはできない。戦前期までは、これらの側面をうまく調和させながら農業が行われており、アカデミズムの「科学的農学」とは別に、松田喜一らの篤農が独自の「日本農学」を展開していた。彼らには、自然、「いのち」への畏怖があった。
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