本研究では、第二次世界大戦後初の外国人プロ野球選手として日本球界で活躍したハワイ出身日系二世ウォーリー・与那嶺を事例として、日米の国境を越える身体的な実践を通じたアイデンティティの構築プロセスについて考察に取り組んだ。とりわけ、アメリカで身につけた未成熟なべースボールの技術を資本として身ひとつで日本にやってきた与那嶺が、日本の選手の技を盗み模倣する中で、チームメートやメディアやファンによって彼の身体/技法がどのような意味を与えられ、自らはいかなるアイデンティティを構築していったかに焦点を当てた。 具体的な調査内容としては、新聞や雑誌や書籍等の複数の資料を用いて多様な文脈での与那嶺の語りや発言を収集することはむろん、ハワイあるいは日本で与那嶺と同時期に活躍した経験のある人物の自伝やライフヒストリー資料等も使用し、間主観的かつ重層的に与那嶺の経験を描き出す作業に取り組んだ。 調査の結果、与那嶺のライフヒストリーからは、同一化と差異化の交錯するまなざしに自己の視線を絡み合わせつつ、いかなる文脈においても日米のどちらにも収斂することのない、いわば「ためらい」がちなアイデンティフィケーションの実践が明らかとなった。換言すれば、多元的アイデンティティ論や、文脈依存性の過度の強調だけでは捉えることのできない彼の「ためらい」の実践は、(ナショナルなまなざしから完全に解放されるわけではないにせよ)「私」と「国家」の個別的かつ必然的な結びつきを揺さぶったという意味で、ナショナルなものを「脱臼」する存在であったことが示唆される。
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