最終年度は「近代日本の「死者」及び成果の総括」を研究課題とし、成果の一部として論文を2本発表、1本執筆した。 近代日本の「死者」については、柳田國男の『遠野物語』、『先祖の話』、『巫女考』及び折口信夫の『死者の書』を中心に考察した。柳田が仏教を排除して身近な死霊の学と化し、折口が仏教を昇華して超越的な死霊と神霊の学と化したという見通しを得た。 より重点を置いた成果の総括については、各年度の業績を踏まえて発展させる方向で行った。 古代日本の「死者」については、特に『古事記』の霊魂についての考察を深め、佐藤正英の『古事記』研究の集大成としての『古事記神話を読む』を詳細に検討・批判し、アマテラスを「たま神(死霊)」とする佐藤説を乗り越えるための考察を行った。その一部について招待講演会(演題「霊魂のゆくえ」)、カルチャー・センター(講座「神道の霊魂観」全2回)及び科研費研究会で発表した。現代神道、特に神葬祭の霊魂観や、考古遺跡、古代仏教の霊魂観等をふまえ、『古事記』が細心の注意を払って霊魂に触れないように回避していることを明らかにした。以上については論文化の準備をしている。 中世日本の「死者」については、『源氏物語』における死霊の前提となる生霊についての考察を深め、成果として「六条御息所の生霊化の基底について」(『季刊日本思想史』、2012年刊予定)を執筆した。 六条御息所論として、生霊の側から死霊を考えるための道筋を示した点で画期的であるといえる。 近世日本の「死者」については、和辻哲郎が『歌舞伎と操り浄瑠璃』で重点を置いた古浄瑠璃作品『阿弥陀の胸割』を通時的観点から再検討することによって、通説化している和辻図式の誤謬を指摘しつつ、身施として「身を捨てて死ぬ」菩薩こそが庶民が抱いた仏の姿であったことを明らかにし、「死者」や「仏」の観点からの新たな通史構築の必要性を説いた(論文として発表した)。
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