本研究の目的は、わが国・飛鳥時代の美術作例中にみえる供養者像に注目することによって、中国から朝鮮半島を経て日本に伝播した仏教がいかなる様相でわが国に受容されたのかを明らかにしようとするものである。 本年度は、韓国百済の故地(扶余、全州、益山など)の仏教遺跡と博物館を訪れ、出土品等の調査を行った。菩薩像では、両手で宝珠を捧げ持つ点などに飛鳥仏にも通じる特徴がみられるものの、問題とする供養者像は作例が少なく、比較検討するに足るサンプルを収集するのは難しかった。さらに中国山東省済南市の博物館を訪れ、仏教遺品の調査を行ったところ、北魏時代の石造仏三尊像の台座に、「跪く」俗形の供養者像を見出すことができた。こうしたインド由来の「跪く」礼法を、僧形以外の俗人の姿勢にまで採用するようになるのは、龍門石窟では初唐時代になって顕著にあらわれてくる特徴である。一方、南朝では、個人礼拝型の貴族仏教が行われ、仏教徒たちの一般的知識や宗教的教養も高く、出家者とそれほど差がなかったことが仏教史の方面から指摘されている。この点を踏まえると、南朝では唐代を待たずとも、インドに由来する新しい礼法が一般の信者の図像にも採用された可能性が考えられる。ひるがえって山東省の作例において、初唐以前の俗形の供養者像の姿勢に「跪」が採用されているのは大変に注目される。山東省においては、いち早く南朝の影響が及んでいた可能性があり、それゆえに北魏時代の俗形の作例に「跪」が採用されたのではなかろうか。今後は、山東省における南朝の影響を調査研究することが課題となろう。 さらに、日本の跪く作例として奈良・来迎寺の善導大師坐像について調査研究を行った。胎内銘文等の検討から来迎寺の善導大師坐像に採用された跪く姿勢の意味を解読した。
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