本研究の目的は、飛鳥時代の美術作例中に表された"供養者像-手に供物を持って脆く-"に注目することによって、中国から朝鮮半島を経て日本に伝播した仏教がいかなる様相で日本に受容されたのか、その実態を明らかにしようとするものである。 本年度は、台湾の国立故宮博物院所蔵の(1)北魏太和元年(477)銘の金銅・釈迦牟尼仏坐像のほか、国立博物館所蔵の(2)北斉武平七年(576)の張解等造仏七尊像碑と(3)唐咸亨三年(672)の仏造像碑について実地調査を行った。まず(1)の北魏の作例では、台座の正面と側面に供養者が表されていたが、光背つきの人物(僧か)は脆く姿勢に、冠を着けた俗人供養者は立像形式に、それぞれ作り分けられていたのは興味深い。また(2)の北斉の作例では、石碑の下方に造像者の張解とその妻の姿が刻まれていたが、二人とも手に供物を執り、脆く姿勢で表されていた。(3)の初唐の作例では、石碑中の仏龕の下方に複数の供養者たちを刻むが、ほとんどが脆く姿勢で表されていた。 仏教における「跪」は、本来インドにおける礼法である。中国に仏教が伝来して以後、「跪」は供養する菩薩や天人などの姿勢として多用され、また光背を伴う僧侶の姿勢にも用いられていく。ところが、肖像性のある俗人供養者を表す際には立像形式とすることが多く、北朝末から初唐以降になってようやく俗人供養者の姿勢に「跪」が積極的に取り入れられていく。俗人供養者にとっての「跪」は、仏教受容期において、インドの礼法たる「跪」でははく、卑者の坐法「胡跪」として認識された可能性もあろう。ところで中国・南朝では、仏教徒たちの宗教的知識や教養が北朝に比べて高かったという。仏教徒たちが脆く姿勢を自らの供養法として取り入れる過程は、南朝の方が北朝よりも早かったと考えられる。日本の飛鳥時代の作例中に供物を持った「跪く」俗人の姿が見出せる事実は、中国南朝の美術を受け入れた可能性を思わせる。
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