従来「キリマンジャロの雪」および「フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯」と『アフリカの緑の丘』を巡っては、白人対アフリカ先住民の支配・従属という固定的関係性を前提とした描かれ方から、その背後に隠された1930年代の帝国主義文化の歴史的痕跡を浮き彫りにする論が展開されてきた。しかし、本研究においては被抑圧者として受容を強制する側面が強調されるあまり、さりげなく描かれるアフリカ先住民登場人物たちの視線や表情については、見落とされてきた点に着目し、30年代の東アフリカに見られた支配的イデオロギーとアフリカ先住民の歴史的変遷の検証を踏まえた上で作品を再読・再評価した。このように東アフリカにおける白人対アフリカ先住民の関係を、支配する側とされる側という双方を固定化した一枚岩的で均質なカテゴリーとして捉えるのではなく、植民地において構成される権力関係を前提としつつも、両者の多様な相互作用を踏まえつつ、アフリカ先住民の描かれ方を検討した。またアフリカ先住民の描かれ方に逆照射される白人の内面意識から、当時のアメリカにおける白人による自己定義の実践を読み取ると共に、自らが白人であると確証させる実践に創作活動を通して加担している作者ヘミングウェイの姿をも浮き彫りにすることにより、ヘミングウェイのより複雑な人種意識を究明している。このようなWASPの作家ヘミングウェイと作品の再評価は、当時のヘミングウェイがいかに白人文化という枠組みを乗り越えることができなかったか、さらには西洋文化がどのようなものであったかを逆照射することになる点においても重要である。
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