太平洋問題調査会(IPR)関係者の中国およびソ連に対する認識を分析するため、カリフォルニア大学バークレー校において史料収集を行った。太平洋問題調査会とソ連の関係について、事務局長のエドワード・カーターが積極的であった一方、カリフォルニアを基盤とするメンバーの多くはその意義に否定的であったことがマクローリン文書から明らかになった。1930年代を通じて国務省極東部長を務め実務担当者として影響力を持ったホーンベックは同調査会の創設メンバーであったが、分析の結果、彼が同調査会に期待したのは同調査会を通じて特定の方向に世論を誘導することや特定の政策を実現することではなく、その影響力によりアジア・太平洋問題をアメリカにおいて主要な地位へと押し上げることであったことが明らかになった。 また、これまでに収集した史料の分析を進めた結果、アメリカは、1940年春から夏にかけてのドイツのヨーロッパでの攻勢中も中国の持久力を側面から支援するとともに、対日経済圧力を強化する方針を変更せず、日本の攻勢を恐れるオーストラリアに強い懸念を抱かせていたことが明らかになった。オーストラリア政府は日本の脅威に対応するため、アメリカの関与を前提に日中英関係の全面的解決を望んでいたが、全面的解決に至らない場合は日中戦争が継続することを望んでいた。日本が中国に足を取られて東南アジア・太平洋方面に全力で攻勢をかけられない状況を期待したからである。
|