従来の研究は鎌倉幕府軍制と室町幕府軍制を直結させて論じる傾向にあり、建武政権が行った御家人制「廃止」に対する評価には検討の余地がある。また、鎌倉幕府の京都大番役は御家人役のなかでも優越視され、その賦課・勤仕形態の変化は御家人制の展開・変質と対応する形で論じられている。ところが、内裏門役と御家人編制のあり方を関連づける視角は、室町期にはみられず、鎌倉期と乖離している。そこで、本研究は建武政権の軍制構想、それに続く室町幕府の内裏門役について考察し、これらを鎌倉幕府軍制から室町幕府軍制に至る流れの上に位置づけ直した。すなわち、御家人制の「廃止」は、御家人役徴収システムの解体を促し、後醍醐天皇は荘園・公領の所職・所領に一律賦課する公役の構築を目指した。御家人役の中核たる軍役も、建武政権は平時の国家的軍務である京都大番役の勤仕者を拡大し、寺社一円領、本所領、武家領に大別して把握した。こうした建武政権による大番役の賦課方式は、戦時の軍制にも転用されたことを明らかにした。また大番役の存在は、建武政権の瓦解後である貞和期にも武士たちに意識されていた。だが、南北朝内乱の激化により、内裏の門役は軍事行動のあいまに勤仕される状態にあった。このため、康安・貞治期までに京都大番役に対する意識は希薄化し、内裏門役の勤仕は御家人身分の証となりえなくなった。応永年間に確立した室町期の内裏門役は、四足門=三管領家、北門=番方、唐門=評定衆、東門=外様衆・御相伴衆(大名か)と、家格ごとに配備される門が固定し、そのなかで輪番勤仕が行われた。こうした室町期内裏門役の勤仕形態を指摘したことで、鎌倉幕府と室町幕府との武力編制の差異が明確になった。
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