本年度は、調査が一通り終了した願成寺文書(熊本県人吉市)の具体的な分析をおこないつつ、東京等で関連文献の収集を主におこなった。相良氏の氏寺である願成寺は、(1)もともと荘園の祈願寺として設定されたものであること、(2)相良氏が入部に伴って氏寺として取り込んだこと、などが明らかである。また郡内の寺院と相良氏との関係に目を向けるならば、(3)球磨郡内の各所に氏寺・経塚・墓所などを設定していること、(4)それは郡内の在地領主層を統合・編成する過程を示してもいること、などが明らかである。西遷御家人が入植する際に、寺院(氏寺)を媒介に地域支配をしている様を確認できる。また、それが戦国期に大きく変容する。根来寺・高野山で修行した願成寺の寺僧が、その成果を球磨郡に持ち帰り、その知識・学問(聖教)をもとに、郡内に末寺群を編成していく。こういった形態は、近世の本末制の形成を考えるうえでも、非常に貴重な事例となるだろう。鎌倉期における相良氏の入植にともなう寺院・墓所設定による地域編成、戦国期における聖教・潅頂などを媒介とする末寺群の形成、この二つの球磨郡内の宗教秩序は、鎌倉期と戦国期とで地域と寺社とを媒介する方法が異なることをも示しており、興味深い。ただし、村落・村人との関係はあまりみられない点に大きな課題を残した。 また、相良氏と球磨郡で確認できる氏寺と地域社会の関係性モデルを検証し、かつそこでは十分に位置づけられなかった氏寺と村落・村人との関係を見るため、紀伊国湯浅氏・隅田党(和歌山県)などの畿内近国の武士団と氏寺の関係、備中国新見荘(岡山県)の名主層の持仏堂の事例などの確認をおこなった。
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