2009年度は、戦国時代の「卜筮祭祷簡」における巫祝の関わり方を明らかにするため、前年度に引き続いて包山楚簡「卜筮祭祷簡」の訳注作成を進め、その構文に基づいて望山・葛陵の各「卜筮祭祷簡」の分類を行い、逐字対照表を作成した(未完成)。葛陵楚簡の赤外線デジタルカメラによる撮影はまだ実施できていないが、包山および望山については以前参加していた研究プログラムでの機材で撮影した赤外線写真データに基づく新しいテキストが『楚地出土戦国簡冊[14種]』(陳偉等著、経済科学出版社、2009年9月)として刊行されたため、字釈などこれまで進めていた包山の訳注や逐字対照表を訂正補完する必要が生じ、その作業を行った。その初歩的な分析により、戦国楚の貴族が定期的に、もしくは罹病時などの臨時的に貞人(占い師)を招いて占卜や祭祀の提案をさせていた中で「巫」と表記されるのは、1件の例外を除いていずれも祭祀対象としての「巫」であることが明らかになった。すでに先学が指摘するように「卜筮祭祷簡」では貞人は基本的に姓名が記され、実際に祖先祭祀が行われた記録には「執事人」という訴訟関係の業務携わる官吏がその執行役として登場することと今回の分析結果を考え合わせると、卜筮祭祷という習俗においては、文献史料では一般的に「巫」として総称される宗教的職能者に対し、その役割・性格に応じた一定の明確な区別があったことが想定される。 この他、中国北京へ行き、清華大学・出土文献与保護中心で08年7月に同大学が収蔵した戦国竹簡を実見し、同センターの李学勤教授他と整理情況や内容などに関する座談会、北京大学サックラー考古与芸術博物館参観、中国文化遺産研究院の胡平生教授他との新出簡牘資料についての座談会に参加し、最新情報の収集などを行った。
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