1998年にユネスコの世界遺産に登録されたリヨンの旧市街は、中世末期から近世初期にかけてのイタリア文化の影響がいかに大きかったかを如実に物語っている。旧市街の中心にあるリヨン歴史博物館の建物は、フィレンツェ人であるガダーニュ家の邸宅であった。大司教座教会サン=ジャン大聖堂と大市の決済が行われた両替広場は500m未満の距離にあり、大聖堂からこの広場に至る歩いてわずか10分程度の街区にリヨンを代表する聖俗のエリートたちの邸宅が並んでいるのであるが、リヨンの外国人はいわゆる外国人街を形成することなく、その中心地に混在して居住した。 フランスでは外国人が財産を残して死去した場合、その相続権は国王にあるとする遺産没収権が定められており、死後自らの子弟に財産を相続するには帰化が必要であった。リヨンに居住した外国人は、商取引や政治の動向に応じて数年で退去していく者たちがいる一方で、市民権のみならず帰化状を取得して、市政運営に携わったり、官職を手にしてフランスの上層社会に深く根を下ろしていく者たちもいた。 都市に居住する外国人にとって、帰化が有した意味とは何であったのか。実際、国王は都市の外国人に対してどの程度遺産没収権を行使できたのか。いかなる条件の下で外国人は帰化を望み、申請するに至ったのか。どのような政治的・社会的状況を背景に、どのような個人的・家族的戦略をもって、帰化という「国家」制度を利用したのか。史料としては、セネシャル裁判所及びリヨン財務局関係史料の中に保存されている帰化登録簿を中心に調査・分析した。
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