23年度は、平安期から鎌倉期にかけての地方造瓦組織のあり方を復原するための資料として、研究史上において尾張産とされてきた、消費地である京都・鳥羽東殿出土の瓦群および、鎌倉をはじめとした相模地域で出土する瓦群の胎土分析をおこない、それを22年度におこなった生産地側の分析データと照合するととで、瓦の需給関係を理化学的データにより検証した。 その結果、両者ともそれぞれ、生産地である尾張地域の東山窯跡群の瓦と近似したデータが得られ、尾張産の瓦が京都(鳥羽東殿)や鎌倉に運ばれていたという先行研究の指摘を裏付ける成果が得られた。しかしながら、相模地域出土の尾張産とされる瓦の胎土分析データが、遺跡がそれぞれ相模国内に離れて点在するにもかかわらず、まとまった値を示すのに対し、鳥羽東殿出土の瓦のデータは、一遺跡のデータながらもかなりばらつきがみちれる結果となった。この解釈として、ひとつには生産体制側での胎土選択や混和剤使用などでのばらつきの大小とも考えられるが、京都への供給が、鳥羽東殿造営の間ある程度継続的にもしくは複数の工人単位による大きな生産規模でおこなわれていたのに対し、相模地域へはごく限定的に生産され供給された可能性も考えられよう。これは、12世紀前半の京都への供給と、12世紀後半の相模地域への供給が、異なる供給原理のもとでおこなわれたと考える筆者論(梶原2008「東海地方における瓦生産」)にも整合的である。さらに言うなら、尾張における瓦陶兼業窯での短期集中・非連続型の瓦生産は、おなじく京都への遠隔地供給をおこなっていた播磨や讃岐が、ある程度生産の継続性をもち、播磨においては瓦専業窯も指向していくという様相とは、大きく異なっているといえよう。平安後期の京都への瓦の遠隔地供給は、国司の成功などの一形態として語られることが多いが、その現地でのあり方は、各国の窯業の現状にあわせつつ多様であったといえよう
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