平成20年度は、北魏王朝の支配層である拓跋鮮卑の文化を考古学的に解明するため、北魏前期の都であった平城(山西省大同市)と孝文帝が遷都した北魏洛陽城(河南省洛陽市)を対象に、都城とその周辺に分布する墓の発掘データを集成し、関連する文献史料・出土文字資料の収集につとめた。平城一帯の北魏墓についての基礎データをほぼ収集・整理し終え、洛陽遷都後のものについては現在、整理を進めているところである。被葬者や埋葬年代を具体的に示す墓誌などが出土することの少ない5世紀中葉以前にあっては、土器をはじめ副葬品の様式が年代決定の根拠となる。しかし、副葬品および墓の年代観は研究者によって大幅に異なり、統一的な編年を構築することが急務であった。検討を通じて、平城周辺から出土した土器を年代の基準とし、それを内蒙古自治区など周辺の地域に敷衍することにより、地域をこえた統一的な墓の編年が可能であるとの見とおしを得た。当時の北魏文化については文献史料にも記載があるが、北朝の史料と南朝の史料とでは、鮮卑がどの程度まで中国文化を受容していたのかという点において、記述に隔たりがある。考古資料の分析を通じて、鮮卑が中国化していく過程が具体的に把握できるようになり、また中国文化の受容において階層間の差異があったことが明らかになってきたことは、文献史料のみでは明らかにしえなかった新たな成果といえる。現在、これらを学術論文として公表する準備を進めている。
|