佐藤春夫は近年、講談社版旧全集の未収録作品から書簡までを網羅した新全集(臨川書店)が完結し、時代と共に歩んだ作家の全貌に近づくことが可能になった。だが、半世紀に及ぶ文学活動の蓄積は膨大で、よく知られた名作に限っても、自筆原稿から初出・単行本に至るまで複数のテクストが存在し、作品構造の根幹にかかわるような訂正が施されている場合も少なくない。これらの訂正箇所は、視点や人称の取り方など文章構成の技術的問題でありながら、それが作品内容に緊密に関わっていく点に重要性が認められる。本年度の研究では、こうした問題意識のもとに、代表作『田園の憂鬱』(1919)の諸稿を比較し、春夫がいかに「小説」形式を獲得しようとしたのか、その方法的な試行錯誤のプロセスを解明することに努めた。初期春夫の小説に多用される一人称形式は、特定の相手に語りかけるというプライベートな「場」の設定を不可欠の要素としていたが、『田園の憂節』を三人称小説へと改変して行くなかで、春夫はそうした「場」の放棄を余儀なくさせられる。つまり、春夫における「小説」形式の獲得過程は、『田園の憂鬱』の主人公が自己肯定の足場を失っていくプロセスの中にこそ現れていたのである。私見によれば、1915年前後の美術受容と、1920年の台湾・福建旅行を契機にしたナショナルアイデンティティの反省的自覚とが春夫のジャンル意識形成における重要な結節点となっているが、『田園の憂鬱』を題材した今回の分析により、二つの時期の間に存在した間隙を埋めていく足掛かりを得ることができた。
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