2021年度及び2022年度は、2020年度に引き続き、①戦国期畿内における紛争裁定の分析、②支配者側の法的支配における〈曖昧性〉についての検討、③戦国期における「公」の権力についての分析、という三つの観点から研究を行うことを目的とした。 2021年12月には、立命館史学会大会において「戦国期畿内における「公権力」 紛争裁定の分析から」と題して報告を行い、戦国期畿内において紛争裁定権を持つ「公権力」= 狭義の「裁判権者」は複数存在し、時に牽制し合いながらも併存していたことを提示した。 三好氏といった新たな「裁判権者」の紛争裁定システムは曖昧で未熟でありながらも、軍事的影響力の強さから「裁判権者」としての存在感を高めており、戦国期特有の事象と見ることができる。受動的な当事者主義的裁判は、戦国期に至っても行なわれていたが、「裁判権者」は当事者主義的裁判を選択的に行っていたとみるべきだとした。 また、『立命館史学』(42、2013)に掲載された「足利義輝期における室町幕府政所沙汰について」では、戦国期畿内の法的支配の一端を提示することを目的に、北野社松梅院禅興と北野社別当曼殊院門跡覚恕による相論を取り上げた。戦国期において室町幕府にとっての京都支配の重要性が増すと、相対的に京都支配に直結する政所沙汰の重要性も増した。相論に介入した義輝は「公権力」再強化を図ろうとしたが、三好氏重臣かつ新規登用幕臣である松永久秀に諌言される結果になった。三好氏は政所沙汰の裁許を尊重したものの、裁許の補強として三好氏奉行人連署奉書を発給しており、当該期の室町幕府奉行人連署奉書の有用性低下を表しているといえる。義輝の恣意的な相論介入は政所沙汰の機能不全を引き起こし、相対的に三好氏の存在感が増すことになったが、それは異なる裁判権者の対立ではなく多元的・重層的な「公権力」の併存状況を表していると結論付けた。
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