ロシアによるウクライナ侵攻の影響により、ロシアに所蔵される古代ウイグル語訳『金光明最勝王経』写本の閲覧ができなかったことは、本研究課題を遂行する上で大きな痛手であった。そのため期間を一年延長し様子を見守ったが、状況が改善することはなかった。 古代ウイグル語訳『金光明最勝王経』の訳注については、いち早く完成させていたので、最終年度は、原典に存在しない注釈文の分析に注力した。その結果、翻訳者・勝光闍梨都統が手元において参照していた法相宗唯識文献の全体像を浮かび上がらせることができた。すなわち、『瑜伽師地論』、『成唯識論』、『大乗法苑義林章』、『般若心経幽賛』などであった。ここには法相宗の開祖、大乗基の論疏が多くを占めており、翻訳者が唯識思想に傾倒しており、基の著作に通暁していたことを示している。 ただし、経文間に挿入された注釈文は、とくに典拠が示されることはなく、あたかもそれが経文の一部であったかのようである。しかもウイグル文の挿入文が、典拠となった唯識論疏と逐語的に一致することはあまりない。だからといってこれを翻訳者による経文の恣意的な改ざんとみなすことは不当である。このような姿勢は、前近代では一般的だった「サイレント・クォーテーション」であり、東アジア仏教論疏に一般的にみられるものである。この点において、ウイグル翻訳者もその伝統の中で知的活動を展開していたことの証左となる。 この他、勝光闍梨都統のその他の翻訳文献も分析し、『金光明最勝王経』の翻訳方法との比較を行った。とくに玄奘の伝記である『慈恩伝』にも、原典にない注釈文を挿入するという、同様の翻訳手法がとられていることを明らかにした。 以上により、本研究課題が掲げていた目標は、概ね遂行することができた。
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