本研究の目的は、近代日本の知識人たちがドイツ思想・文化の移入を媒介として、「国民国家」確立期における「国民文化」創生の重要性について認識し、その発展に寄与した内実を明らかにすることであった。併せて、「文化主義」が提唱されるにいたった大正期の論壇に続き、昭和戦前・戦中期において、地方にこそ日本固有の文化があり、「地方文化」が「国民文化」を創出するという言説が頻出することになる背景と要因は何か、という問いにも応えることをめざしてきた。 その目的のもと、田岡嶺雲と巌谷小波におけるドイツ思想・文化からの影響、小木曾旭晃と木村小舟における「地方文化」論と実践活動をおもな考察対象とした初年度と第2年度の成果を踏まえ、最終年度の2022年度には、ドイツのメルヘンを受容した巌谷小波との交流・往来が、「標準於伽文庫」編纂という森鴎外最晩年の文業を成立させた一要因であることを論じた。さらに、「標準於伽文庫」編纂の発案者である馬淵冷佑の国語教育・児童文学者としての業績を確認するとともに、「標準於伽文庫」編纂における鴎外、鈴木三重吉、松村武雄のそれぞれの役割を踏まえた上で、「標準於伽文庫」編纂に関する鴎外の意図、さらに鴎外の文業全般における「標準於伽文庫」の意義を明らかにした。 加えて、『しがらみ草紙』第20号 1891年5月)に「鴎外文話」の総題のもと掲載された11編、すなわち鴎外の初期の文章から、大正5(1916)年4月陸軍省辞職、予備役編入後に発表された「渋江抽斎」(『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』1916年1月から5月)をはじめとする一連の史伝作品にいたるまでの鴎外文学を通底する鍵語として「Resignation」を捉え、その内実に迫るとともに、鴎外の「Resignation」による創作活動の淵源と諸相を考察することによって、鴎外文学における「国民文化」創生の軌跡を論じた。
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