文化文政期は全国的に俳人間の交流がなされた俳諧の爛熟期であるが、まとまった来翰集の研究は進んでいない。本研究では、会津の関本巨石・如髪父子宛の書簡を調査することにより、その広い交流の実態を解明することができた。また、新資料「如髪集成染筆帖」と照らし合わせて調査することで、文化期において如髪が行った二度の関西旅行と、各地の著名俳人たちとの交流を具体的に解明できた。巨石・如髪が関西に足を運んで対面の交流を繰り返していたことが判明し、商業ルートを活用して商家としての生業と風雅の双方に相乗効果をもたらしていた。本研究によって、俳諧を嗜む近世庶民の交流実態の一端を明らかにすることができた。
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