最終年度は、近世期における情報流通の実態として、五代将軍徳川綱吉(正保三年〈一六四六〉~宝永六年〈一七〇九〉)の治世下と没後に多出した、いわゆる「宝永落書」を取上げ、未紹介作品を中心にその性格を再検討した。 明治期に矢島松軒隆教が熱心に落書を収集し、周知の如く『江戸時代落書類聚』に結実した。中でも「宝永落書」は巻二-四に該当し、最大の量を誇る。翻刻上・中・下三巻三冊が出版されたことで、江戸時代の落書の公開が進み、『落首辞典』が「落首年譜・人物索引」を付して『類聚』を補填している。よって狂歌形式の作は従来かなり網羅されていると言えよう。ただしそれ以外の漢詩形式・散文形式の落書は、未翻刻のものも少なくない。 その中で、内閣文庫蔵書写本『墨海山筆』(天保十四年閏九月十三日関根為宝序 総目録共八十四冊存 請求番号217-0031国立公文書館デジタルアーカイブ画像公開)は従来も貴重な叢書と認識されているが、第八冊所収「宝永落書」は看過されてきたと思しく、未紹介の落書を多く含む。叢書の編者は整三堂旭岱と称し、東叡山寛永寺の塔頭の僧正であったという。寛永寺は増上寺と並んで徳川家の菩提寺として知られ、綱吉の墓所でもある。「宝永落書」末尾には「天保庚子(=十一)春」の書写との識語がある。中でも「古金馬鹿集序」は従来言及がないが、『古今和歌集』仮名序の徹底したパロディであり、知識人の戯作的性格が溢れている。例えば綱吉治世の六種の悪事を指摘し、それは「富士山の噴火」「京都の大火」「江戸の地震」「東叡山根本中堂の扁額」「砂除け金の徴収」の五種に、「いわゐの哥」を加えた六種である。最後に新将軍家宣の政治に期待する祝意を込めつつ、落書を記す意義を君主の善悪を糺すことだとしている。当時の落書は武家社会を対象とし、次世代の将軍に期待する風潮や「世直し」願望を込めた共通認識を広める役割があったと結論付けた。
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