研究課題/領域番号 |
20K00723
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研究機関 | 帝京大学 |
研究代表者 |
有田 佳代子 帝京大学, 公私立大学の部局等, 教授 (50541752)
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研究期間 (年度) |
2020-04-01 – 2025-03-31
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キーワード | 第二次世界大戦期ベトナム / 日本語教育史 / 日仏共同支配期 / 日本プロパガンダ誌 / ベトナムの日本語教育 / Tan A 日本語講座 / 川村重和 / 木村繁雄 |
研究実績の概要 |
『Tan A』の日本語講座は、1942年10月発行の創刊号から1943年4月発行の第12号に連載された「実践日本語(Tieng Nippon thuc hanh)」、1943年6月発行の第15号から1944年10月発行の第45号に連載された「日本語(Tieng Nippon)」の、2講座がある。前者の全容については前年度の論考で、その概要を報告した。 今年度、後者の内容目録が完成し、日本語・日本文化研究第6回国際研究大会(2023年12月 九州大学)において口頭発表を行った。ここでは、全30課それぞれの概要とそこで使われた例文の特徴、およびその執筆者であるS.Kimuraの人物像を報告した。S.Kimuraについては、1942(昭和17)年8月のハノイ大使府と東京の外務省とでやりとりされた電報(198号,199号,200号,742号)を根拠とし、1942 年夏以降に台湾総督府からサイゴン(チョロンの共栄会支部)に日本語教師として派遣された木村繁雄書記ではないかと当初より推測してきた。台湾中央研究所臺灣史研究所で木村の履歴書等は入手したものの、仏印渡航の査証が判明せず、断定はいまだできない。しかし、Tan A 自体が日本大使府中央情報局の強い管理下にあったこと、特に北部では仏印共栄会が中心となり日本語普及を行っていたことを考えると、当初北部に派遣予定でありその後サイゴン派遣に変更された日本語教師としての木村繁雄が、Tan A にも日本語講座を執筆した可能性は高い。木村は、1902年佐賀県生まれで1928年に公民学校助教諭となった。文部省で「思想問題ニツキ受講ス」等の経歴もある。36 歳で「渡臺」し臺灣公学校訓導となり「小学校児童ニ對スル國民精神涵養ノ具体的方策懸賞論文」「時局ニ對處スル教育ノ実際的研究」等執筆した。1940年に総督府法院書記に任命されている。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
『Tan A』のふたつの日本語講座全課の翻訳が終わり、どちらも内容目録が完成し概要を報告した。 前半の「実践日本語(Tieng Nippon thuc hanh)」の執筆者川村について詳細(東京外国語学校(現・東京外国語大学)で仏文学を学び、渡越し仏印派遣軍報道部に所属し、戦後に福島大学で教えた川村重和名誉教授 1988年86歳没)が判明した。 後半の「日本語(Tieng Nippon)」の執筆者S.Kimuraについては断定はできないが、当初より推察してきた台湾総督府よりサイゴンに派遣された木村繁雄書記である可能性は高く、その経歴等についても公開/報告した。
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今後の研究の推進方策 |
当該資料のふたつの日本語講座「実践日本語(Tieng Nippon thuc hanh)」および「日本語(Tieng Nippon)」の、文法項目や例文等の内容目録は完成し概要を公開したが、それぞれ紙幅や発表時間の制約のために全体を公開しきれていない。また、コースデザインや語彙選択の背景にある日本語教師の言語教育観についても、十分な公開に至っていない。 したがって、今後は、紙幅の余裕のある媒体において研究成果報告を行いたい。
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次年度使用額が生じた理由 |
当初、本研究の主たる資料『Tan A』がフランス国立図書館所蔵のみであったため、フランスでの史料探査を予定し、その旅費を計上していた。また、ベトナム南部の都市ホーチミン市の国立第二文書館、ホーチミン市人文社会科学大学図書館、ホーチミン市総合科学図書館での資料探査も予定していた。しかし、コロナ禍での渡航が困難であった1年半を経て、ハノイ国家大学人文社会科学大学東洋学部Vo Minh Vu博士が来日のおりにご助力を得て、全巻のPDF版を入手しえた。当初計上しなかった翻訳作業に人件費を要したものの、それでもフランス調査とベトナム調査のために計上した予算より少額だった。そのため、次年度使用額が発生した。研究成果の公開のための費用(学会発表のための旅費・参加費、書籍化のための経費等)として使用したい。
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