1950年代前半とは組織体としての柳田国男の民俗学を考える上で、様々な意味においてひとつの転換点であるといえる。石田英一郎の「日本民俗学の将来」による民俗学を文化人類学の一部として位置付ける提案に多くの民俗学者が明確な反論を行わなかったことに端を発する民俗学研究所解散(1956年)にみられるように、戦後の数年間で柳田の民俗学は体制内部においても方法、視点形成の両面で変化を求める動向が散見されるようになりつつあった。 その要因のひとつとして想定されるのが担い手となった群像の変化である。とりわけ「民間伝承の会」が学会として再編されたことに伴い、1935年の「民間伝承の会」設立時、およびそれに続く数年間で入会した会員に加え、民俗語彙採集を中心とする柳田の方法とその組織的な実践に直接参画することのなかった世代が新しく組織に参入した。その過程で柳田の民俗学もまた、それまで比重が置かれていた「郷土」に足場を置き、他地域との交流をはかるという様式を後退させていくこととなる。 戦前・戦中において柳田の民俗学は、傘下の研究従事者のみならず、その基点となる「郷土」をも編成の対象としたが、その傾向は戦後、次第に変更を余儀なくされていった側面がある。その脈絡から「郷土」と研究者の関係性について「自らをどこに置きなおすか―「日本民俗学講習会」のあとさき」(大塚英志編『運動としての大衆文化 : 協働・ファン・文化工作』 水声社 2021年)の中で論じた。
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