法の自律という問題に裁判およびDogmatik という観点から光を当てるのが、本研究の目的であったが、その研究過程において、裁判イメージが、そもそも日本とヨーロッパで全く異なるのではないか、という異様なアイディアが浮上した。そこで、「裁判を受ける権利」という、憲法32条にも見える表現について検討すると、それが欧語には存在しないものであること、日本人の造語であることが判明した。そのことは、日本の公法学に大きな影響を与えたとされるイェリネクの受容に際しても、妙なバイアスを与えることになったことも明らかにされた。さらに、かねてから目標としていた、戦後ドイツを代表する行政法学者バホフの行政訴訟論について、田中二郎との比較をも含む研究を行うことができた。 以上の研究実績については、邦語とドイツ語での公表も行った。一部は現在公表に向けて作業中である。以上の認識を獲得する過程で、改めて考えさせられたのは、Dogmatik と一言で言っても、その機能が、日本とドイツとでは、その社会構造および近代史上の経験の大きな相違にも起因して、大きく異なるものであり得るのではないか、という問いが浮上したことであった。Dogmatik が精密であることは法の自律に寄与するのではないかという予断を持っていたが、この予断には方法的にかなり吟味が必要かもしれない。これは今後の課題である。 なお、関連するものとして、若手のドイツ公法史研究者による注目すべき博士論文について、やや大きな書評をドイツ語で完成させたがこれも公表は次年度に持ち越される。ただし、この仕事を通じて、ドイツの法が、社会に対して持ち得た役割について、非常に大きな洞察を得ることができたし、政治に対する法の自律をあまり過度に高く評価すべきでないことも、腑に落ちて納得することができたのは、主観的には大きい収穫だった。
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