これまでに収集した日米英の史料、及び関連する業界誌の記事等を基に、1978年から82年にかけての国際プルトニウム貯蔵(IPS:International Plutonium Storage)構想に日本が果たした役割についての論文を執筆した。論文では、日本が当初構想の実現に向けてIAEAでの多国間協議でも米英など先進国との協議でも妥協案の作成につとめたものの、米国が日欧に対し二国間協定を通じてプルトニウム平和利用を認める方針に転じる中、IPSへの熱意を失い、途中から不満を表明していた途上国への対応にも消極的となった経緯を明らかにできた。またIPS構想そのものについても、従来は先進国と途上国の間の南北対立が原因となって頓挫したと言われてきたが、実際には日米欧の間で制度設計等をめぐる対立が原因となって作業が遅延し、その間に途上国が作業に加入して南北対立が激化したこと、その後も賛成する国のみでIPSを設立する案に先進国が消極的となっていたこと等、先進国内部の意見対立が重要であったことを明らかにできた。 以上の成果には2つの意義があると言える。まず学術的には、冷戦期の日本外交が、原子力平和利用と核不拡散に関する重要な問題で短期的・ 中期的な成功を収めたという意味で国際政治問題に深く関わっていたことを示し、従来の日本外交への理解をより精緻なものにする意義があった。また社会的にも、IPS構想が挫折に至る過程で日本が主要国との二国間関係に依存し、途上国への不満には向き合わず、国際的な枠組みに注力しなかったことが、現在日本がプルトニウムの管理で窮地に立たされている一因となったことを示し、原子力問題に関する社会の理解をより正確なもににする意義があると言える。 なお以上の成果は、日本国際政治学会の機関誌『国際政治』に論文として投稿し、2023年夏に刊行予定である。
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