本研究の課題及びねらいは、「授業の映像化の論理と構造の解析」にある。次の三つの論点及びそれらの構造連関を解明・分析することにある。最初の論点として、「授業の映像化」の解析という課題である。傑出した「教育映画」のうちに表象されている「映像のなかの教育/映像としての教育」という局面を辿りながら、それらの内実を明晰に把握してみることである。二つ目の論点としては、その具体的な作業として、教育記録映画の映像表象に纏わる独自の論理――すなわち「映像の論理」(視覚表象)と「教育の論理」(教育言説)とのあいだの相互連関の在り方を明らかにすることである。そして三つ目の論点としては、「授業の映像化」に内在している独自の構造について、具体的な映像分析の作業から実証的に検証してみること、以上の三点である。 教育映画の撮影では、教師や子どもたちも含めて授業の在り方は、当然のことながら映像として写される。授業を「写す/映す」とは、撮影行為が「撮る/盗る」ことに堕さないように、理念としては授業の核心を「移す」関係にあるものとしてここでは理解しておきたい。授業とは本質的には一回限りの行為である。たとえそれが幾度も繰り返された内容のものであろうとも、授業の生命的な核心は一回限りの行為に賭けられている。そうした授業を撮影しようとする行為もまた、一回限りの行為でもある。授業の生命的な核心は、演出的に繰り返されて撮影されて、掴まれていくものではない。こうして本来一回限りの授業行為と一回限りの映像撮影とが交互に切り結ぶような一回生起的な経験の内実を確かめることを端緒としながら、映像と教育のあいだに横たわる可能性について考察してみる。これは授業場面の映像表現のうちに表出される教育表象の在り方について、「映像(―図像)」表象分析の視点から、それら表象が生成してくる文脈を見きわめていくことにも繋がるであろう。
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