日本統治時代の台湾地方自治政府は、その自治のあり方が時代とともに大きく変わっていったことに着目した。前年度は、地方制度改正により台中州が成立し、各種の公共施設の建設が進んだこと、寄附金を募り建設するという様態が見られたこと、州・市において、技師・技手が在籍し、彼らが設計を担うようになっていったことなどを明らかにした。そして本年度はさらに、地方制度改正が公共建築の建設に影響を与えていたことを明らかにし、公共建築の設計を担った地方の技師や技手の動向を明らかにした。 1920年度の地方制度改正により、州に建築設計を担う技師が配属され公共建築の建設が進んだ。それにより地方都市での建築の建設は、各州が担うようになった。大都市をかかえる台中州・台南州などには、官吏として建築設計を担う技師が採用された。台中市には台湾総督府の技手であった白倉好夫が、1921年に台中州土木技師に採用され、学校建築や行啓記念館、台中駅前の巨大な奉迎門などを設計するなど、地方技師の活躍があった。 さらに1930年代には、州ではなく市による設計で、公営住宅や市場、競技場、斎場、公設質舗など社会事業に関わる施設の建設が進んだ。そして1935年に地方制度が再び改正され、州、市、さらに街や庄にも正式に法人格が付与され、州会や市会が議決機関として設置されたことが分かった。 このように、日本統治下の台湾は、当初は地方自治は制限されるものとして始まったが、地方制度の整備により、しだいに自立した地方統治体制が確立された。それにしたがい、建築設計を担う技師が州に配属され、そこでの公共施設建設が進んでいく体制が作られたという経緯が確認できた。現在、これらの研究について、論文として纏めているところである。
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