本研究は近代社会を迎えた朝鮮において、家庭と教育機関そして当事者が求めた「婦人」が形成される中等教育期に着目した研究である。朝鮮において女子中等教育が本格的に展開するのは1920年以降である。この時期は第二次朝鮮教育令施行期であり、戦時体制以前ということもあって朝鮮人女性に求められる「婦人像」が明確に示される時期でもあった。 本研究においては貴重資料である1920年代以降の「学籍簿」資料を収集し、その分析を行ったことが成果の一つといえる。学籍簿資料は1920年代に設立された公立女子高等普通学校(高等女学校に相当)のもので、現在手元には大邱女子高等普通学校の学生簿資料がある。 学籍簿資料には父親の職業、住所、成績、人物像が記されている。これらの情報から「優秀な生徒」とされた人物はどのような評価を受けているのか、また「婦人」形成プロセスである中等教育を経た後の進路が判明している女子生徒については、なぜその人物が選ばれたのかについて考察した。特に中等教員養成機関である奈良女子高等師範学校で学んだ朝鮮人女子学生は、卒業後、職業「婦人」として朝鮮で教鞭に立った者たちである。近代の「婦人」としての形成過程を経て、次世代の「婦人」を育成する役割を担った。 また、留学をあっせんした柳原吉兵衛という大阪・堺の実業家に大邱女子高等普通学校長・白神寿吉が送った書簡を分析し、教育機関が求めた理想の職業「婦人」像を明らかにするとともに、収集した史資料から白神の教育思想・理想とする朝鮮「婦人」像を検討した。
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