ハワイ王国では、19世紀初頭のアメリカ人との接触以降、四つの憲法(「1840年憲法」「1852年憲法」「1864年憲法」「1887年憲法」)が相次いで制定された。これらの憲法の制定過程からは、アメリカ人側のハワイにおける権勢拡大の思惑と、それに抵抗するネイティブの国王による王権の維持という、二つのベクトルのせめぎ合いがみてとれる。 これらこの四つの憲法を「デモクラシー」と関連づけて位置付けるのであれば、第一の「1840年憲法」は、1820年以降ハワイに入植したアメリカ人宣教師による「デモクラシー」概念の植え付けであり、第二の「1852年憲法」は当時の合衆国でも実現していなかった奴隷制廃止条項などを盛り込んだという意味で入植したアメリカ人の理想的「デモクラシー」の実現であった。これに対し、アメリカ的デモクラシーへの反発から国王の権限強化を目的に制定されたのが「1864年憲法」であり、それへの反動としてアメリカ人政治家が国王に強制させる形で成立したのが「1887年憲法」であった。 ハワイ王国憲政史の再構築を目的として行った本研究では、そもそも無文字社会であったハワイにおいて成文憲法が制定され、近代的国家体制が急速に築かれた過程に着目するにいたった。そして、1820年代から1830年代にかけて、従来の口伝の法(カプ)が慣習として存続する一方で、文書での法が浸透した。いわば口頭法と成文法のハイブリッドな運用が行われたこの時期に着目し、ハワイアン支配者階級がいかにして近代的法制度の運用に踏み切ったのかを明らかにした。その結果、成文憲法の制定は、ハワイに流入する多様な外国人を統制する必要性とともに、ハワイアン内部の統合をも目的としたものであることが解明された。
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