研究課題/領域番号 |
20K20365
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研究機関 | 学習院大学 |
研究代表者 |
岩田 耕一 学習院大学, 理学部, 教授 (90232678)
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研究期間 (年度) |
2020-04-01 – 2023-03-31
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キーワード | ラマン分光法 / 時間分解測定 / 化学反応 |
研究実績の概要 |
本研究課題の目的は,化学反応の中間体となる短寿命分子種を高感度に検出するための超高速分光法を開発することである.この目的のためには高安定なフーリエ変換限界ピコ秒時間分解ラマン分光計が必要となるが,研究代表者らはこの時間分解ラマン分光計の開発に成功した.この分光計では,ノッチフィルターによってフェムト秒光パルスを狭帯域化したピコ秒光パルスを光源としている.安定性に優れたフェムト秒光源を利用することで,二乗平均平方根0.8%の出力安定性を達成することができた.ピコ秒光パルスの周波数・時間積はフーリエ変換限界の1.2から1.3倍である.本年度にはこの新たな方式によるピコ秒時間分解ラマン分光計の開発を報告した論文を国際学術誌で発表した.この論文は高い評価を受けて,cover articleに選ばれた. ピコ秒時間ラマン分解計を利用して,金および銀のナノ粒子近傍におけるターチオフェン分子の振動緩和を観測した.光照射によってターチオフェンを最低励起1重項状態に電子励起して,この状態での振動緩和過程を時間分解測定した.その結果,電子励起されたターチオフェンと金属ナノ粒子との間の3ピコ秒以内での高速な振動エネルギー移動を観測した.この振動エネルギー移動は,環のC-S伸縮振動に帰属される振動モードにおいてのみ進行していた.この実験結果に基づいて,分子内および分子間の振動カップリングによるエネルギー伝達モデルを提案することができた.金属ナノ粒子と結合していないターチオフェンと金属との間における振動エネルギーの授受が強く示唆された.さらに,光励起によって生成したターチオフェンラジカルカチオンの時間分解ラマンスペクトルにおいてC-S伸縮振動のラマンバンドの幅が増大することを見出し,金属ナノ粒子によるモード選択的な振動位相緩和の加速やチオフェン環間のねじれ構造の緩和の可能性を指摘した.
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
研究代表者が勤務する大学では令和3年度を通じて新型コロナ感染症への対応策が取られており,研究室のセミナー等も1年間オンラインで行っていた.しかし,この状況が研究室での実験や解析に重大な影響が及ぶことは避けることができた.本研究に使用するレーザー機器などもほぼ順調に稼動させることができた.一方で,令和3年度には研究代表者が共同議長を務める国際会議を日本で開催する予定であったが,この会議は次年度に延期となった.国際会議での招待講演2件もオンラインでの発表となった.国内の学会にも対面で参加することはできなかった.本研究課題での研究成果について国内外の研究者と会って議論を深める機会を得られなかったことは,やむを得ない事情とはいえきわめて不本意であった. 研究活動がコロナ禍の制約を受ける状況下ではあったが,本研究課題では興味深い現象を見出すことができた.「研究実績の概要」で述べたように,電子励起されたターチオフェンと金属ナノ粒子との間の3ピコ秒以内での高速な振動エネルギー移動を観測することができた.この金属-有機分子間の振動エネルギー移動が電子励起状態のターチオフェンのC-S伸縮振動でのみ顕著に進行することは,予想外の知見であった.ターチオフェンラジカルカチオンにおいては振動モード選択的な振動位相緩和の加速あるいはチオフェン環間のねじれ構造の緩和を観測できたが,これも予想外かつ興味深い実験結果であった. 本研究で開発したピコ秒時間分解ラマン分光計を用いることで,二分子ラジカル反応を誘起するために有効な分子間衝突の種類とその衝突による振動モード選択的な振動緩和に関する予備的な実験結果を得ることができた.研究開始時には明確に想定していなかった新たな展開への萌芽を得ることができた. 以上の状況を総合的に勘案して,現在までの研究は「おおむね順調に進展している」とした.
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今後の研究の推進方策 |
令和4年度には,前年度までに観測したターチオフェンと金属ナノ粒子との間の振動モード選択的な高速エネルギー移動の機構について考察する.金属表面上でのけい光消光などの実験から,光励起された芳香族有機分子から金属への電子エネルギーの移動が数ピコ秒以内の時定数で進行することはこれまでに知られていた.電子エネルギーと同様に振動エネルギーも数ピコ秒以内に有機分子から金属に移動することは,起こり得ることだろう.しかし,この高速な振動エネルギー移動がすべての振動モードにおいて起こるのではなく,特定の振動モードにおいてのみ選択的に進行することは,意外であり興味深い.新たに見出した振動モード選択的な高速エネルギー移動の原因を明らかにすることができれば,金属ナノ粒子の近傍で進行する化学反応の機構を議論する際にも貴重な知見を与える.今後は本研究課題における実験の結果に関する考察を深めて,研究の結果を論文として報告する.国内外の学会に対面で出席することが可能な社会情勢になれば,その機会を利用して国内外の研究者とこの未知の現象についての議論を重ねる.対面での学術交流を通じてこの問題について議論する際に広い視野を確保できるようにする. 令和3年度には,本研究で開発したピコ秒時間分解ラマン分光計が光誘起の高速二分子ラジカル反応の反応初期過程を研究する際の有力な実験法となることを示すことができた.この方法を用いると,反応分子どうしがどのような相対配置で衝突すると二分子化学反応が進行するかについて,実験に基づいて可視化できる可能性が生まれる.化学反応の機構を解明することは,化学における主要な問題であり続けている.本研究課題から得られた新たな実験法を化学反応の研究における主要な方法へと発展させるために,令和4年度もこの研究を継続する.
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次年度使用額が生じた理由 |
本研究で得られた実験の結果は事前に想定していなかった成果であり,その結果を説明あるいは解釈する際に議論を尽くすことは容易ではない.得られた結果が前例のないものであるために,議論の際に適切な論点のすべてに思い至るとは限らないからである.このような場合には,国内外の一流の研究者といろいろな可能性を挙げつつ対話をすることがきわめて有効である.しかし,「現在までの進捗状況」の項目で述べたように,令和3年度中は,新型コロナ感染症蔓延のために国内外の学会に対面で出席して本研究課題の成果について発表する機会を得られなかった.そのために,研究代表者および研究に従事する大学院生がこれら国内外の学会に出席するための旅費を使用することがなかった. 令和4年度は,国内外の学会に対面で出席することが可能な社会情勢になれば,本補助金を利用して研究代表者および研究に従事する大学院生が学会の開催地に出張する.学会に対面で出席して本研究で見出した金属ナノ粒子とその近傍の分子の振動の間でのモード選択的な高速エネルギー移動現象を広く周知するとともに,その意味について国内外の研究者との対話を重ねる.これらの議論をもとに思索を深め,国内外での研究状況を見極めたうえで,論文を執筆して出版する.その際には予算の許す限りでオープンアクセスを選択する.
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