最終年度も、イブン・スィーナーの『医学典範』注釈書のうち、ファフルッディーン・ラーズィーによる『医学典範難点注釈』、イブン・ナフィースによる『医学典範注釈』、およびクトゥブッディーン・シーラーズィーによる『医学典範総論注釈』の読解と分析を中心的に行った。また、『医学典範』注釈者と彼ら以外の医学者の見解の違いを理解するために、イブン・スィーナー以降の時代の医学者のうちイブン・ルシュドを取り上げ、後者の記述を注釈者たちと比較した。 昨年度から開催が延期になっていたシンポジウムにて、シーラーズィーの注釈と彼の医療倫理書との関係を発表した。その中で、彼が『医学典範』注釈を医者にとって必須の総合的文献として編纂したことを指摘した。またその際、彼の注釈内容の大部分が先人による注釈からの引用であることが判明し、この点について有意義な情報提供を受けた。本発表を含むシンポジウムの記念論集は出版準備中である。 また、思考や記憶、五感、随意運動という、医学者が脳を起源とする身体の能力についてのイブン・スィーナーと『医学典範』注釈者による説明を、彼らと同じくアリストテレスの見解を支持するイブン・ルシュドの説明と比較し、その成果をオンライン研究会にて発表した。『医学典範』ではこの問題の論証を医学者が行うことが忌避されているものの、以前指摘した通り、注釈者たちはその指示に背き、医学者によって能力の媒介とされる精気概念を核として、それらの能力の起源が心臓であるという論証を行う。一方イブン・ルシュドは『総論の書』などにおいて、身体に内在する熱に基づいた説明によってその起源が心臓であることを証明する。同じ結論だが、両者の証明や論証の方法が異なること、このような哲学的問題に対する態度が異なること、『医学典範』注釈書はイブン・スィーナーの思惑以上に医学寄りの立場であることが明らかとなった。
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