本研究は、近世武士階層の政治的活動につながる、主体形成の過程に闇斎学の基礎教養はどのように関与したのかを明らかにするために2つの具体的な以下の課題を設定していた。(1)闇斎学の儒者たちの学問論の検討と(2)藩主・藩士らを中心とする武士階層の学修実態の解明である。(1)については昨年度来、史料調査を続けてきた新潟県新発田市の新発田市立歴史図書館に収蔵される闇斎学関係史料の重点的な分析を進めた。また、名古屋市立蓬左文庫、及び国会図書館収蔵のおもに18世紀の闇斎学関係史料も合わせて分析した。中でも重点を置いたのは闇斎学者・稲葉迂斎の関係史料の分析である。迂斎は新発田藩の八代藩主・直養が幼年のころより侍講として仕え、藩への闇斎学流入の窓口ともなった人物である。新発田藩の場合、藩主嗣子と儒者の関係が藩社会への学問普及の有効な契機として認識されていたことが推察できた。 一方課題の(2)については闇斎学派儒者が実際の藩や藩主との接点を持つ際の具体的な様子に焦点をあてた。一つには三宅尚斎と忍藩・阿部家の例であり、もう一つが迂斎と新発田藩である。尚斎も迂斎も藩主または藩の儒者として仕えることを選択するのだが、尚斎は藩主およびその側近との政治・教育上の対立に悩み、入牢・追放という処分を受ける。尚斎の事例からは、17世紀末から18世紀初頭にかけての武家社会における儒学移入の現場に、儒者と執政者の矜持や慣習が鋭くぶつかる様子を確認した。迂斎は藩主やその後継者、また補佐役に対して「上書」や「心得」を作成し、武士の教化に力を注いだ。また藩主の肝いりで闇斎学系儒者の教訓書集を藩版として出版、領内への頒布を実現させた。迂斎の例からは、18世紀半ばの武家社会への儒学浸透と、闇斎学による藩主をはじめとする家中への初歩的な道徳教化が結びついた結果と捉えたい。
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