研究課題/領域番号 |
20K21929
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研究機関 | 成城大学 |
研究代表者 |
下田 和宣 成城大学, 文芸学部, 准教授 (10850844)
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研究期間 (年度) |
2020-09-11 – 2023-03-31
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キーワード | 文化哲学 / 受容 / ブルーメンベルク |
研究実績の概要 |
本研究は、20世紀ドイツの思想家ハンス・ブルーメンベルクの哲学的核心を、彼の「受容」という事柄に対する理解に焦点をあてることで取りだそうとする試みである。2020年度は新約聖書の福音書における受難物語とバッハの楽曲を中心とするその超領域的受容を主題化した後期著作『マタイ受難曲』(1988年)を主要な検討対象とした。いわば「宗教受容の哲学」をはじめとするブルーメンベルクの思索は全体として、伝統的な形而上学が問題としてきた「起源」への探求を断念し、そこから転じてむしろ「変容」と「受容」へと思考を方向づけ、その過程において可能化する根源性を追究するものである。2021年度は『近代の正統性』を中心に他の諸著作を視野に入れることで、この理解をさらに掘り下げることを目指した。受容の問題はブルーメンベルクの基礎的な歴史理解に関わるものである。中世から近代への時代転換を促しているのは、「かつては答えが可能であると見なされていた問い」に対する解答の信憑性や通用性が失われた事態であり、そこでかつての自明性に穴が開くという事態に直面した人間特有のリアクションである。それをブルーメンベルクは「再充填」と呼ぶ。歴史における意味の空白化と補填への切迫に対し、純粋に合理的な処置が行われることは不可能であり、それは常に急場凌ぎの埋め合わせに留まる。このように、何かを新たに受容するという行為もまた「歴史的な真空恐怖」に対する人間的「自己防衛」によって促される「再充填」として理解される。ブルーメンベルクのこうした「受容」理解は、「生」ではなく「死後生」に文化の本質を見るヴァールブルクおよびカッシーラー的文化哲学の潮流に属しつつ独自性を持つ。これらの考察は宗教哲学会第十四回学術大会におけるシンポジウム「宗教概念批判以降の宗教と哲学」の提題「概念を駆り立てるもの―宗教概念批判とドイツ概念史研究」として公表された。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
ブルーメンベルクにおける受容思想の形成史的に解明するという課題に際し、他の主要概念群との関係を広く考察する必要があることに思い至った。ひとつにはいわゆる「背景」の問題がある。初期隠喩学から『マタイ受難曲』に至るまで、ブルーメンベルクの主要な関心のひとつとして、概念的思考を背後から駆り立てるものがあった。受容もまさに、主体的な思考が働く手前ないしその背後にあってそれを用意するものであると考えられる。ブルーメンベルクによれば、受容は思考の背景をなす行為である。本研究ではこのような観点から、50年代後半当時の哲学的布置状況から、初期隠喩学における背景問題の浮上を考察するとともに、70年代の「非概念性の理論」における哲学的人間学の観点からの隠喩学の再定式化を、背景問題の深化として捉える。この考察についてはすでに公表済み(下田和宣「背景化する隠喩と隠喩使用の背景――ブルーメンベルクをめぐるひとつの哲学的問題系」、『哲學研究』、606号、25~64頁、2021年)。もうひとつは「迂回」をめぐる問題系である。何が受容として思考の背景となるかは直接的に明らかなものではなく、ひとつひとつコンテクストを歴史学的に解きほぐしていく必要がある。この姿勢は事柄へのアプローチの仕方以上に、迂回的存在者としての人間というブルーメンベルクの根本理解にも関わるものである。このモチーフに着目することで、ブルーメンベルクの思想とドイツ文化哲学の伝統との親近性が明確となる。このような見通しのもと、ブルーメンベルクの弟子であるラルフ・コナースマン『文化哲学入門』(知泉書館、2022年)を訳出し、出版した。これらの観点は受容というテーマから一見外れるようではあるが、ブルーメンベルク的文化哲学において伝統的な理性中心主義的・人間中心主義的な思考からの逸脱を示す重要なメルクマールだと言える。
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今後の研究の推進方策 |
これまでの研究作業を受けたうえで、ブルーメンベルクにおける受容思想の形成史的研究についての考察をまとめる。重要なのは初期におけるその萌芽である。1947年の博士論文「中世スコラ的存在論の根源性の問題についての論考」、およびハンス・ヨナスに対する書評である1948年「時代の境い目と受容」をはじめとした初期著作における用例について確認を行うことで、ブルーメンベルクが受容を中心化する思考に対して当初いかなる意義を見込んでいたのかが明らかになろう。また、1960年代後半に立ち上げられた研究グループ「詩学と解釈学」における交流についても引き続き調査を行う。とりわけ、ヤウス「期待の地平」やイーザー「内包された読者」といったいわゆる「受容美学」関連の諸概念について、『マタイ受難曲』における積極的な活用例が見られるので、より踏み込んだ研究の必要性を認識している。そのうえで、カッシーラーやコナースマンといった文化哲学者たちとの距離を正確に見積もる必要があるだろう。文化哲学的機能主義を強調することにより、ブルーメンベルクの「迂回」が楽観的な歴史主義的相対主義として理解されてしまうことも危惧される。それゆえ、たとえばカッシーラーが批判したジンメルの「文化の悲劇」論に立ち返り、ブルーメンベルクの人間学と照らし合わせることもなされるべきだろう。受容と迂回の契機を強調するカッシーラーに対し、近代文化における疎外や物象化の事実から、受容のほとんど不可能な困難さを説いていたのがジンメルであった。それゆえジンメルからベンヤミン、クラカウアーへとつながるもうひとつの文化哲学的系譜を視野に入れるなら、ブルーメンベルクの受容思想を一面化することなく、その意義を精確に把握することができると考えられる。当初の予定では渡独して資料収集にあたる予定であったが、コロナ禍の状況を考慮して国内で作業を遂行することにしたい。
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次年度使用額が生じた理由 |
当初は2020年度~2021年度の予定であったが、所属先の変更やコロナ禍のため、一年間期間を延長した。状況次第で渡独し、マールバッハ・ドイツ文学資料館に所蔵されているブルーメンベルクの遺稿を調査する予定であったが、いまだ予断を許さない状況のため、海外調査は断念し、国内での研究作業に専念する。よって旅費として申請していた予算については書籍購入に使用することが予定されている。
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