前年度までの成果を踏まえて、今年度は西田幾多郎と大森荘蔵の関係性の明確化に取りくみ、『金沢学院大学紀要』において論文化した。 大森荘蔵の立ち現われ論と西田幾多郎の「絶対無」概念の類縁性を調査した。とりわけ、今回新たに取りくんだことは西條勉の「もの」・「こと」に関する古典日本文学研究の成果を手引きに、それらの議論を西田・大森に逆照射する仕方で彼らの哲学の共通性・差異を明らかにすることを試みた。大森荘蔵の立ち現われ論は、科学的な描写とは異なる「日常茶飯の経験」の端的で的確な記述を試みる哲学である。そして、その記述のために、主語・述語による分節を背景とする「主観」・「(物理的)対象」・「現象」・「(認識)知覚作用」という分枝を差し控える点にその方法がある。そして、この方法を介して、大森は風景が「有情」であることを主張する。つまり、見えている風景とは、「私の心」に対置される客観的世界ではなく、それに先立つ「私の心」そのものであり、感情や情念と結びついている。 西田幾多郎との共通点は、大森荘蔵がこの立ち現われる「風景」を「永遠の今」という言葉で提示している点から探ることができる。大森は「風景」が過去や未来を含み込み、限界が見えない仕方で立ち現われているとする。これは実のところ、西田が『無の自覚的限定』で語る「永遠の今」と合致する。 だが、西田は別の側面から「永遠の今」を記述している。それは自己の経験に収まりきらない他者的な「もの」に着目する立場である。通常の他者論と異なり、西田は他者を人間だけではなく、動物や自然物にも及ぼす。私たちは西田が着目する立場は西條勉が提示する「もの」と「こと」の関係性と重なることを指摘しつつ、この「もの」と「こと」の対立関係こそが大森が論じなかった西田の議論独自の特徴であることを明らかにした。
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