申請者の研究目的は、文学、日本史学、考古学等、あらゆる方法を取り入れた複合的観点を持ち、日本上代史料に見える行政区画外の「国」のありようを考えることにある。ここでいう行政区画外の「国」とは令制に対応しない「国」を指す。その「国」は畿内に限定できる。さらに畿内の行政区画外の「国」については、やまと歌としての行政区画外の「国」の考察の視座と、漢文としての行政区画外の「国」の考察の視座といった二つの視座が必要である。 まず、漢文としての行政区画外の「国」(和泉国や吉野国)の考察では、宮(和泉宮や吉野宮)が重要なファクターであることを立証し、その宮が存在する場が特別行政区として認定され、最終的に「国」と位置付けられることを考えた。それは、研究実績でもある学術雑誌『萬葉』第二三二号、令和三年十月号に「『和泉国』と『和泉監』の性質―令制の国名に対応しない『国』の考察を中心に―」でも論じたところである。そして次に、この論証は、やまと歌としての行政区画外の「国」の研究、特に「難波国」の研究に活用できると考えた。「難波国」は、『万葉集』巻三・四四三番歌~四四五番歌の天平元年班田史生丈部龍麻呂挽歌、同、巻六・九二八番歌~九三〇番歌の神亀二年難波行幸歌、同、巻二〇・四三六〇番歌~四三六三番歌の大伴家持の「私の拙懐を陳ぶる」歌、そして、正倉院文書、天平十六年〈七四四年〉三月「写成唯論掌中枢要校正注文」(続々修三五ノ三断簡二(三)裏、大日本古文書編年文書二四―二五九)に見える。いずれも、「難波宮」に関わるものと考えられる。すると、「難波国」という表現は、難波宮が存在する所に摂津職が配置され、特別行政区となり、令制に対応していない「国」として位置づけられるようになったと考える。
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