研究概要 |
本研究の目的は,まずイギリスにおける身体教育(pkysical education)の用語出現の民衆教育草創期(1830年代から1840年代)に遡り,その意味内容を明らかにしようとすることである。平成22年度は特にカール・フェルカーに焦点を絞った研究を行った。 当時外来文化として定着していたドイツ式体操(German style gymnastics)とそれらとの関連を身体運動文化論として捉え,スイスからの移民したカール・フェルカー(Carl Voelker)のドイツ系の体操実施方法や内容を新出資料を用いて明らかにした。Professor Voelker's Gymnasium (1826)は,移住直後のロンドンにおいてカール・フェルカーがロンドン体操協会(London Gymnastic Society)というクラブ組織を運営し,会員の獲得を促そうとしたキャンペーンのための説明資料であった。しかし,カール・フェルカーがスイスに身を寄せる契機となったカールスバート決議以降,大学関係者や知的エリートのドイツからの国外退去があいつぎ,彼もそのうちの1人としてスイスに渡った境遇の一端も明らかになった。スイスでは,ペスタロッチー教育を担う教育実践家フェレンベルク(Fellenberg)がカール・フェルカーの体操指導の力量を絶賛し,フェレンベルクと共にロバート・デール・オーエン(Robert Dale Owen)までも推薦状を書いていたことが判明した。また,スイスからイギリスに移住したエドアルト・ビーバー(Eduard Biber)との人脈も資料調査から判明した。ビーバーもカール・フェルカーによる体操指導の教育的意義に言及していた。このようにカール・フェルカーの人物評価をめぐって,ペスタロッチー教育にゆかりのある人物から高い評価を受けていたことは,フェルカーの体操指導とその内容が新天地であるイギリスにおいて,民衆教育の体操実施のバックグラウンドであったとみなされる。
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