研究概要 |
近世的な土地利用が継続していた明治期の2万分の1旧版地形図により、井関川流域の山地荒廃状況を明らかにした。当時の山地の多くは荒地(草地)記号によって占められ、とくに花崗岩類分布域を中心に崩土記号の集中が各所に見出された。このような荒廃状況は、戦後に撮影された米軍空中写真および1960年前後の空中写真によっても確認される。裸地化は、尾根筋のみ、尾根筋から山腹斜面にかけて、また全面的なはげ山の状態に大きく分けられる。荒廃山地の渓間には幅広い砂質河床が散在し、数多くの溜池の中には、砂防用の目的を持つものがあることが判明した。近世末毛利家文書においても、調査対象地域内に300ヶ所以上の「砂留」工事が施されていたことが知られている。井関川流域に限らず、荒廃山地から流出する諸河川は、椹野川、土路石川、南若川、長沢川他いずれも天井川化していた。一方、下流平野には、おもに段丘、扇状地、沖積低地、そして江戸時代初頭以来の各期干拓地が分布する。そのうち、椹野川最下流の干拓地である新開作東(1774年干拓)および700メートル南方の昭和東干拓地(1930年干拓)において、深度8メートルまでの試錐を行った。その結果、前者の深さ2.5mにおける細砂中の貝化石AMS年代は約1,000年前を示した。後者においても海成粘土層上に厚さ3メートルの細砂質堆積物が認められ、いずれもかなり新しい時期における流域からの砂供給の大幅な増加を示唆している。これらの事実は、周辺山地の人為的荒廃化が少なくも千年前には始まっており、諸河川の天井川化とともに海域に運び出された堆積物が本地域の干拓地造成の土台をなしたものと見ることができよう。
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