21度は、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルそれぞれの主観性概念の本質的な現れを、近代における神概念との密接な連関において精査した。その際、特に無限性概念に着目して、有限な人間における「無限なもの」との関係の理解を手がかりにした。近代初頭デカルトとパスカルが捉えたように、「思惟する」、「理性」をもった主観である人間は、無限と有限の狭間を揺れ動く、「無限と無の中間」の存在者である。この主観が自らの有限性に気づくということは、「無限なもの」との関係においてのみ可能になる。というのも、「無限なもの」とは、何よりまず自発的な「思考」の可能性、すなわちコギトのことだからである。とはいえ人間の思考が「無限なもの」とどのように関わりうるのかは、決して簡単な問題ではない。「無限なもの」は知の可能性の障碍でもあれば拠り所ともなりうる。それゆえにとそ、まさしくこの問題が、近代哲学が、そしてまたドイツ観念論が取り組まざるをえなかった最重要な問いになるわけである。この「無限なもの」を単に信仰の問題に解消させないのだとすれば、それはどこまでも知性にとっての課題となる。すなわち「無限なもの」をいかにして知解するかということは、近代の哲学者たちにとっての主要な関心事になったのである。ドイツ観念論の哲学者たちにとっても、「無限なもの」は、神、「絶対的なもの」、「崇高なもの」と名づけられ、知の成立条件として哲学的思索の重要な課題であった。カントの「理性の超越論的理念」、フィヒテの「良心の限界に現れる自我」、ヘーゲルの「純粋否定としての良心と絶対知」は、いずれもその課題に答えるべき成果と見なしうるものであった。
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