22度は、特にカント、フィヒテ、ヘーゲルにおける神の思想と主観性概念との関連を「良心」概念の分析を通して明らかにするよう試みた。主観の最内面におして主観に負し目を意識させる「良心」がカントにおいて「理性の法廷」として捉えられ、またラィヒテにおいて絶対的自我の根本として、さらにヘーゲルにおいあては「悪」を意識させる「否定性」として捉えられていたことを明らかにした。これによって、ドイツ観念論の哲学において「良心」を根本機制として、神と人間の主観性が同じ一つのありかを共有するものと考えられていることが解明された。さらには、この「良心」概念の語源的な意味の解明からも、主観が「良心」を介して他者との共同性を確保すると考えられていることが分明になった。デカルトやパスカルによって「無限と無の中間」の存在者と捉えられた近代の人間は、こうして共有知である「良心」において他者との共同性を担保されると同時、「無限なるもの」という理念を目指す存在者としてこの世界に確固たる位置を占めるに至ったのでする。 また、本年度は、ヘーゲル哲学における「神の思想」の意義に焦点を絞り、この哲学の根本にこの思想が存在していることを明らかにするとともに、この思想がこの哲学の「自由」の概念と深く結びついていることを鮮明にした。神を意識することは人間精神の最高の課題であるが、それは人間精神の自己否定なくしては可能ではない。なぜなら、絶対的なものである「神」は、もとより有限な人間精神を超えるものであって、自らの有限性を意識すると同時にそれを乗り越えようとする「自己否定」的営みなくしては接近することさえ困難なものだからである。ヘーゲルはこの精神の自己否定のあり方を「自由」と呼び、「否定性」を神の本質と捉えていたのである。
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