本研究は、われわれ各人の生の時間的な自己理解からほとんど不可避的に生じると思われる「ニヒリズム」の構造を明らかにし、その超克のための理路を原理的に解明することによって、道徳形而上学の基礎を見出すことを目的とし、この目的を達成するための方法的通路として、「ベルクソニスムによるハイデガー哲学の脱構築」という課題に取り組むものである。 平成22年度の研究においては、「時間を蒙る(erleiden)」こととしての「時間経験」について考察した21年度の研究成果を踏まえつつ、ハイデガーの『存在と時間』における現存在の分析論を独自の観点から批判的に再吟味することを通じて、過ぎ去る時間の地平におけるわれわれの生の自己理解の構造を、より詳細かつ具体的に、現象学的・解釈学的に分析することを試みた。その成果が、下記の「11.研究発表(平成22年度の研究成果)」欄の1番目に挙げた論文である。そこでは(当論文自身の論構成と文脈に鑑みて、必ずしもそのように明示的に言及したわけではないが、内実としては)、ハイデガーの分析した「良心の呼び声」という現象の実質をなす事柄として、われわれの「(自己)意識」と「生」とのあいだに必然的に生じる、ある種の〈亀裂〉を見てとることが試みられ、この〈亀裂〉に対してわれわれ各自がどのような態度をとりうるかという問題のうちに、ありうべき道徳哲学の原理的な基盤がかいま見られることとなった。だが、この論考は、いまだ問題の「解決」といった類のものではなく、むしろ、新たな「生の現象学」の問題設定のための端緒にすぎないことが同時に自覚された。われわれがさらに探究しなければならないのは、「(私は)この生を現に生きていながら(自分が)この生を現に生きていることを知っている」という「生命の自証」あるいは「自己覚触」とでも呼ばれるべき事態は一体どのような時間的構造を有しているのかという、問題である。 なおまた、上記研究の遂行に資するため、フライブルクおよびベルリンの研究機関を訪問し、彼の地の研究者の知遇を得ながら、近時のドイツにおける「生の現象学」と宗教哲学との融合の試み、およびそうした試みの道徳哲学的な含意について、有意義な意見交換を行うことができた。
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