研究課題/領域番号 |
21520027
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研究機関 | 帝京大学 |
研究代表者 |
冲永 荘八 帝京大学, 文学部, 教授 (80269422)
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キーワード | 脳 / 心 / 純粋記憶 / 伝達的機能 / 概念枠 / 宗教体験 / 霊魂 / 論理的外部 |
研究概要 |
本年度は当初、自我の形而上学的位置づけを計画していた。それは、自我が物質に還元されないなら、自我の出所の問題は、物質としての脳から心が生じることの問題と並行して論じることを要求した。そこで本年は、精神と物質の両者ともを概念枠と見なすことによって、一定の見通しを立てた。 そこでまず、物質から精神が生じ得ない問題について、西田とベルクソンがどう対処しているかを確認した。そこでベルクソンにおける、記憶が脳に局在化せず、記憶を運動につなぐ媒介的な役割としての脳という考えを検討し、そしてベルクソンが純粋知覚と純粋記憶という改変された二元論をとったことの意義と問題点とを確認した。ここでは西田の、精神や物質をともに実在の限定とする場所的な一元論とは異なり、実在とされる記憶の位置づけが問題となった。 次に、脳が心を産出するという問題を、ジェイムズとベルクソンとの対比によって検討した。ジェイムズは、脳は心を産出せず、何かを別の何かへと伝達する機能と見なした。しかし、精神性は最終的に物質性から伝達され得ず、伝達的機能説でも精神と物質との二元性は残ってしまった。ベルクソンも独自の仕方ではあるが、実在を二元的に分離したことには変わらない。この問題点を解消するためにも、精神と物質とを実在そのものではない概念枠として再解釈することの妥当性を検討した。 さらに、宗教体験を題材に、それが脳の物理的作用か、それとも脳の外の何かなのかという問題を検討した。そこで、脳で生じる体験の事実は、脳の外の霊魂や神霊の存否について何も言えないことを確認した。それは、ある知識体系の内部で観察される出来事は、その知識体系の外部については何も言えないという、論理的状況と重なっている。これも物質や脳、反対に精神や霊魂も、私たちの概念枠であるという、本年度当初の見通しの裏づけとなった。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
平成23年度は当初、自我の問題を行う予定のところ、22年度からのつながりとして、物質から精神が生じることの問題を追及した。このため24年度に自我の問題を扱うことになったが、反対に当初24年度に扱う予定だった因果性と自由の問題は、22年度から23年度の間において、物質と精神とをともに概念枠として扱える可能性の議論と並行して、決定論と自由も同様の概念枠である可能性があるという議論の中で扱った。よって24年度に因果の問題ではなく、引き続いて自我の問題を扱っても、本研究全体としての遅れは特に生じない。
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今後の研究の推進方策 |
23年度に物質から心が生じることの謎を、物質も心も概念枠であるという立場から考察したのを受けて、24年度は「私」がアプリオリな存在なのか、それとも物質や心と同様に論理枠によって形成されたものか、という問題について扱う。それによって、概念化以前の「私」の実質に迫り、そこから「私」や世界の存在とは何かを根本的に捉えなおす。それは、存在とは概念なのか、それ以前なのかという問いでもある。 25年度は本研究の最終年度にあたるが、当初の研究計画に則って、決定論の問題に立ち返る。ひとつは、決定論も自由意志も、それぞれの概念的コンテクストで作られた、実証不能な立場であることを示す。ともに、各々のコンテクストの中で役立てばよいからである。そこで、おしなべて世界が決定されているか、自由であるかという問いとは、日常世界で役立つために作られた概念を、究極の問題に適用させようとしたために生じた問いであることを示し、本研究全体のテーマである、形而上学的問いの出所とは何かという問題に一定の結論を導く。
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