今年度は、前年度までの、主として哲学史における「尊敬」概念の検討をうけて、主に現代の政治思想における「リベラリズム」において、尊敬がどのような意味を持っているのかを確認することを試みた。 その際に注意したのは、当初の研究計画に従い、感情論の観点からこの問題を取り扱うことであった。 哲学史において感情の意味を組織的に主題化する最初の試みは、紀元前3世紀に姿を現す。すなわち、哲学史に感情論を導入したのはストア派の哲学者たちであった。感情の問題に関するストア派の文献は、完全な形では何も残っていない。しかし、17世紀のヨーロッパでストア主義の復権が試みられ、その結果、ストア派の哲学は、近世哲学に無視することのできない影響を与えた。そして、デカルト以降の近世哲学のテクストをストア解釈として読むなら、感情が一種の認識であり、短縮された推論であることを確認することが可能となる。 したがって、感情というものが好ましくないものであるとすれば、それは、感情として表現された認識ないし推論が妥当なものであるとはかぎらないという点に見出されねばならない。実際、多くの哲学者たち、特にスピノザの『エチカ』には、この点に関する詳細な分析を認めることができる。これは、「受動性」概念および「決定論」との関係において理解されるべきものである。 そして、このような好ましくない感情、つまり、誤った推論ないし認識の表現としての感情を代表するものとして、特に「妬み」の問題を取り上げた。妬みは、公共性を脅かすものとして取り上げられるからである。この問題は、ロールズの「不平等原理」との関係で言及されることが少なくないけれども、すでに19世紀半ば、トクヴィルは、『アメリカの民主主義』において、民主主義が「妬み」と不可分のものであり、これを否応なく刺戟するものであることを指摘していた。 今年度は、上記のような観点から、感情論の文脈における公共性と尊敬について明らかにした、この研究の成果は、今年度申に公表される予定である。
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