昨年度はバディウの『存在と出来事』における数学的存在論を、ハイデガー存在論との対決という観点から分析し、ハイデガーの観想的・詩的存在論の隘路を避けるためにバディウが数学を利用していること、その妥当性と問題点を研究したが、今年度はその成果を踏まえたうえで、数学的存在論が近代の主体論とは異なる新たな主体化の論理を追求するものであることを明らかにした。 数学的思考を主体化の問題と考えることは、従来数学といえば非主体的なもの、個的主体を超えたものと捉えがちだった哲学的伝統(これはプラトン、カント、ヘーゲル、ハイデガーに至るまで共通の認識である)に再思考を促すことであり、バディウ哲学の功績の一つと考えられる。バディウはこの主体化としての数学的思考の極致をコーエンの「ジェネリック」という手法のうちに見ているが、バディウのこの思考法を彼の初期著作である『主体の理論』から辿り直した。 また今年は、カヴァイエス、ロトマンら、バディウが影響を受けている数学者たちとの関係のみならず、バディウが直接言及することの少ないフッサール現象学との関係をも視野に入れて研究した。さらにバディウの政治論・芸術論における主体化の問いと、数学的主体化のテーマがどのように関連しているかの分析にも着手し、『存在と出来事』のなかのルソー論と集合論的思考との関係に関するバディウの記述を追求した。 数学的存在論における主体化というテーマと彼の政治論・芸術論における主体化の問いは、『世界の論理』のなかでバディウ自身が総合的に展開していると思われるので、来年度は『世界の論理』の分析を中心に行う予定である。
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